またまた面白いヒトに会ってしまいましたー。
昨日、 wyukiさんと会った。会社の近くの丸ビルで。
先日の スチールケースのパーティではじめてお会いして、ゆっくりお話をするのは昨日がはじめてだったのですが、なんとも不思議なひとでした。
おおおおもしろい!
観察力があって(状況判断と理解力が高い)、守備範囲が広い。
コミュニケーション能力が高いのは、決して、いろんなタイプのヒトに自分を「合わせている」のではなくて、いろんなタイプのひとのツボにはまる「引出し」を沢山持ってるんだと思った。
その引出しをそのひとの目の前で「あー。ほらっ、私も。」と素直に開けているような感じ。
だけど、ちゃんと芯がある。
このwyukiさんはコーチングというお仕事をしている。
ワインを片手に「コーチングがだいすきだー」と云っていた。
すごい。
自分がその仕事を大好きで、他人のためになって、その上世の中のためにもなる職業。
そういうのを天職っていうんじゃなかったっけ。
私の友人でも数名コーチングの勉強をしている友人はいるんだけど、会っても真面目に仕事の話をしたことがないので、最近よく耳にするコーチングって「一体なんなんだー」と思っていた。
昨日wyukiさんと話をして、素朴な疑問はがんがん質問して、私なりに何となく分かった。(つもり・・・)
コンサルともカウンセリングとも、似ているけど違う、というところが面白い。
コーチングっていうのは、「相手を映す鏡になること」と云っていた。
なるほど!
相手(クライアント)とコミュニケーションを取ることで、いろんな角度からそのヒトを自分に映し、そのひとのいろんな姿に気付かせてあげるんだって。
その中で、本人が本当にやりたいことや、やるべきことを一緒に見つけていくんだそうだ。(勿論いろんな種類のコーチングがある。相手がビジネスマンであれば、勿論、専門的なビジネスの知識も要求される)
「相手を映す鏡になること」。
これって、難しいことだ。ものすごく。
例えば、私もヒトの話を聞くのは好きだけど、そこには自分の興味や好奇心(勿論相手のことを好きという上での)が溢れる程あって、返ってきた答えや表情で、反射的にそのひとの像を(勝手に)捉えようとしてしまう。というか、捉えたいから質問をするんだと思う。
そして、捉えようとするということは、その瞬間に「捕らわれる」ということでもある。
鏡になるっていうことは、そのヒトを歪めず、捉えず、ただ受け止めて、そのヒトに返すということ。
難かしー!
コーチする側が、きちんとトレーニングをしていないと、そして「自分」をきちんと持っていないと相手も自分もシンドイことになるよなあ。
誤解を恐れずに云えば、自己啓発的な意味で、一歩間違えるとできそこないの宗教的な胡散臭ささえ漂ってしまうかもしれない。
だから、コーチングっていうのはやっぱりプロの「仕事」なんだって思った。
ビジネスの世界でコーチングという言葉を耳にすることが多いけれど(特に管理職)、働くということはそれだけ自我を押し殺しているヒトが多いということで、しかもそれが必ずしも会社に取っても本人に取っても最良の形ではないということなんだろう。
そして、今の世の中にはビジネスに限らず、至るところにコーチングを必要としている層があるんじゃないかとも思った。
たぶん、むかしは、自分の素質や才能を伸ばしてくれる家族や親戚や近所のひとや先生や友人や同僚や上司が、今よりももっともっと自分の「身近」にいたんだと思う。意識するしないに関わらず。
どっちがいいのか悪いのかは別として(身近にいなくなってしまったということは、それなりの意味とメリットがあるはずなので)、そういうヒトとヒトとのつながりが希薄になってしまった現代には、コーチングの力っていうのは必要なものなのかもしれない。
wyukiさんは「引出し」が多いと書いたけど、例えば本人が気付いていない引出しを本人に気付かせ本人の手で開かせるのがコーチングというものなのかもしれない。
気付いていないだけで、誰にでも引出しは沢山ある。
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