「君のような若いのを、おれは二人も三人も知っている。食べたくないものが出たら食卓(おぜん)をひっくり返せ。それでないと、一生、食いたいものも食えねえぜ」
お味噌汁と納豆が食べたいのに、毎朝ハムエッグとトーストを食べさせられている新婚の青年に向けた池波氏の本書の中での一節。
かっこいい。
(って、実際、食卓をひっくり返されたらかっこいいどころじゃないけどね。なんていうのかな。文体に生き様が出ていてかっこいい。)
インフルエンザで熱もほぼ下がり、寝ているのにもあきてベッドに持ち込んで、もそもそと読んでいたのがこの池波正太郎の傑作エッセイ『食卓の情景』。
久しぶりに読んだ。
満足にご飯が食べられない状態でこのエッセイを読むのはかなり自虐的な行為ではあったが、堪能。
そもそも昭和40年代に書かれたエッセイで、時代背景などは今と大きく変わっている筈なのに、すぐ隣で料理の湯気が立ち込めてるかのようなこの文体から放たれる新鮮さはなんなんだろうと思う。
以前に読んだときは、時代小説家らしい、男っぽい旅の食エッセイというイメージだった。
でも、今自分が毎日の食事を作るようになって、この本を読むとまたひと味違うエッセイなのだ。
自宅で仕事をする池波氏を支えるのは日々の食事だ。
氏にとって、食事は日々の活力であり、楽しみであり、癒しであり、想像力や好奇心を喚起させる存在そのものだったりもする。
そこには、幼いころの記憶や、嗜好、そしてこれまでの人生がみっちりと集約されている。
心許せる仲間たちとの食い道楽の後。
家人に作ってもらった好物の夜食を堪能した後。
明け方までひとりで机に向かい、膨大な数の時代小説を書き続けた孤高の背中も浮かびあがる。
食事が豊かなのが、豊かな人生。ということでは決してないけれども。
自分の限られた時間を、自分の注ぎたい部分にどれだけ注げるかということ。
どれだけ自分らしく生きられるかということ。
当たり前の日々の生活に、どれだけ喜びを見いだせるかということ。
そういうことを食事を通して教えてくれる、私にとっての貴重な1冊です。
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